
Oshinの短編小説 : 未完成
- Oshin

- 6月5日
- 読了時間: 10分
「で、歌詞は?」
スタジオの時計は、23時を少し過ぎていた。
航平が、最後にシンバルを指で軽く押さえた。
まだ小さく揺れていた音が、スタジオの空気に溶けていく。
拓海は肩からギターを外し、手に持っていたノートを閉じた。
「もう少し」
そう答えると、ベースの直人が眉を上げた。
「その“もう少し”って、先週も聞いたぞ」
「わかってる」
「いや、責めてるわけじゃないけどさ。来週レコーディングだろ?」
「わかってるって」
拓海は笑った。
なるべく軽く。
空気が重くならないように。
すると、キーボードの真帆が譜面を片付けながら言った。
「拓海の“大丈夫”と“わかってる”は、だいたい大丈夫じゃない時に出るよね」
「なにその分析」
「長い付き合いなんで」
航平がスティックをケースにしまいながら、少し笑った。
「それはある。拓海の“大丈夫”は信用ならん」
「お前まで言うなよ」
「いや、でも曲は良いよ。今日のギターも良かったし」
航平がそう言うと、直人も頷いた。
「曲は良いんだよ。メロも良い。サビも覚えやすい。ただ、言葉がまだ借り物っぽい」
「……借り物?」
「うん。綺麗だけど、拓海が言ってる感じがしない」
その言葉だけ、妙に胸に残った。
拓海はノートの端を親指でなぞった。
ページの上には、題名を書くための空白だけが残っていた。
何度も書いては消した跡が、紙の表面を少しだけ荒らしている。
タイトルなんて、まだ付けられなかった。
歌詞も、自分の気持ちも、何ひとつ形になっていなかった。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
少し強い声になった。
直人が黙る。
真帆も手を止める。
航平はスティックケースのチャックを閉めかけたまま、拓海を見た。
しまった、と思った。
「ごめん。今のは違う」
「いや、いいよ」
直人はそう言ったが、全然よくなさそうな顔をしていた。
沈黙が落ちた。
それを壊すように、真帆が小さく息を吐いた。
「拓海さ、最近ずっと笑ってるよね」
「え?」
「笑ってるんだけど、なんかさ、笑顔だけ先に置いてきてる感じがする」
「なにそれ」
「中身が追いついてない感じ」
拓海は返事をしなかった。
笑顔は便利だった。
「平気」と言えば、ほとんどの会話は終わる。
「大丈夫」と言えば、誰もそれ以上踏み込んでこない。
踏み込まれたくない自分もいる。
でも、踏み込んでほしい自分もいる。
その二つがずっと胸の中で喧嘩していた。
「今日は帰るわ」
拓海はノートをリュックに入れ、ギターケースを肩にかけた。
直人が言った。
「送るよ」
「いい。歩きたい」
「終電ある?」
「ある」
「飯食った?」
「食った」
真帆が即座に言った。
「嘘」
拓海は笑った。
「なんでわかんだよ」
「食べた人の顔してない」
「どんな顔だよ」
「空腹を笑顔で隠してる顔」
航平がドラムの椅子に座ったまま、コンビニ袋を漁った。
「カロリーバーあるけど食う?」
「いらない」
「賞味期限、昨日までだけど」
「もっといらない」
「じゃあ俺が食う」
「食うんかい」
少しだけ空気が緩んだ。
直人が財布から小銭を出した。
「コンビニでなんか買え。返さなくていい」
「いらないって」
「じゃあ貸し。返せ」
「どっちだよ」
直人は小銭を拓海の手に押しつけた。
「曲で返せ」
拓海は何も言えなかった。
スタジオを出ると、夜風が少し冷たかった。
駅までの道には、人がまばらに歩いていた。
仕事帰りの人。
酔って肩を組む人。
イヤホンをしたまま早足で通り過ぎる人。
みんな、それぞれの今日を持って帰っている。
拓海はコンビニに入った。
おにぎりを一つと、ペットボトルのお茶を持ってレジに並ぶ。
「温めますか?」
店員の男の子がそう言ってから、すぐに「あ、間違えた」という顔をした。
「すみません。おにぎりでした」
拓海は思わず笑った。
「大丈夫です」
「今日、ずっと弁当ばっかりで」
「ありますよね、そういう日」
「あります。脳みそが勝手に同じこと言う日」
店員は照れたように笑った。
「お疲れさまです」
その何気ない一言が、なぜか変なところに刺さった。
お疲れさまです。
誰にでも言う言葉だ。
ただの接客かもしれない。
でも、その夜の拓海には、ちゃんと自分に向けられた言葉みたいに聞こえた。
「……お疲れさまです」
拓海も小さく返した。
コンビニを出たところで、スマホが震えた。
母親からだった。
出るか迷った。
出たら、きっと嘘をつく。
でも、切る元気もなかった。
「もしもし」
『あ、出た。珍しいね』
「なに」
『なにって。元気かなと思って』
「元気だよ」
『はい嘘』
拓海は立ち止まった。
「なんでだよ」
『声が細い』
「声に太い細いあんの?」
『あるよ。母親だからね』
「便利な設定だな」
母は電話の向こうで笑った。
『ご飯食べた?』
「今買った」
『えらい』
「おにぎり一個で?」
『食べようとしただけでえらい』
「甘すぎるだろ」
『外は厳しいんだから、家族くらい甘くていいでしょ』
拓海は返す言葉を探した。
駅前の信号が青になった。
でも、足は動かなかった。
『曲、できたの?』
「……まだ」
『そっか』
「また締切ギリギリ」
『いつもじゃない』
「それフォローになってない」
『でも、いつも最後には何か書いてるじゃない』
「今回はわかんない」
初めて、弱い声が出た。
電話の向こうが少し静かになった。
『わかんないって言えたなら、まだ大丈夫よ』
「なんで」
『本当に駄目な時は、わかんないとも言えないから』
拓海は空を見上げた。
街の明かりで、星はほとんど見えなかった。
「母さんさ」
『うん』
「人って、強くなるのかな」
『ならないんじゃない?』
あまりに即答だったので、拓海は少し笑った。
「ならないんだ」
『強くなったふりが上手くなるだけじゃない?』
「ひどいな」
『でも、それで今日を越えられる日もあるでしょ』
拓海は黙った。
母は続けた。
『ただ、ふりばっかりだと疲れるからね。たまにはちゃんと弱いまま帰ってきなさい』
「帰ってきなさいって、今そっち帰れないし」
『そういう意味じゃないよ』
「わかってる」
『わかってるならいいです』
電話の向こうで、テレビの音が小さく聞こえた。
『じゃあ、寝なさい』
「まだ帰ってる途中」
『じゃあ、帰ったら寝なさい』
「曲は?」
『明日でいい』
「来週レコーディングなんだけど」
『今日死ぬわけじゃないなら、明日でいい』
乱暴な言い方なのに、妙に優しかった。
「……うん」
『拓海』
「なに」
『今日もお疲れさま』
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥がきゅっと狭くなった。
「はいはい」
『はいはいじゃない』
「ありがとう」
『よろしい』
電話が切れた。
部屋に着いたのは、0時を少し過ぎた頃だった。
電気をつけると、テーブルの上に朝飲み残したお茶があった。
温くなって、少し色が濃くなっていた。
拓海はギターケースを壁に立てかけた。
ストラップが少しねじれているのを直してから、おにぎりを開けた。
海苔が少し湿っていた。
食べながら、スマホを見る。
直人からメッセージが来ていた。
《さっきは言い方悪かった。ごめん》
その下に、続けてもう一通。
《でも、綺麗な歌詞より、今のお前の言葉が聞きたい》
真帆からも来ていた。
《完成してなくてもいいから、一回見せて》
航平からは、少し遅れて画像が送られてきた。
さっきのカロリーバーの写真だった。
《賞味期限切れてても普通にうまい》
拓海は思わず笑った。
それから、もう一通。
《だから曲も多少期限切れてても大丈夫》
「意味わかんねぇよ」
声に出して笑ったあと、少しだけ胸が軽くなった。
完成してなくてもいい。
その言葉が、少しだけ呼吸を楽にした。
ノートを開く。
書きかけの歌詞は、やっぱりどこか他人の顔をしていた。
正しそうな言葉。
優しそうな言葉。
誰かに嫌われないように選んだ言葉。
拓海はページを一枚めくった。
真っ白なページに、ペン先を置く。
最初に浮かんだのは、かっこいい言葉じゃなかった。
深い比喩でもなかった。
誰かを驚かせるようなフレーズでもなかった。
ただ、今日一日、自分が本当に欲しかった言葉だった。
今日も頑張れた。
書いた瞬間、涙が落ちた。
「なんだよ、これ」
自分で笑った。
笑ったのに、また涙が落ちた。
歌詞として正しいのかはわからない。
誰かに響くのかもわからない。
ありきたりかもしれない。
弱すぎるかもしれない。
でも、今の自分から逃げていない言葉だった。
拓海はスマホを手に取った。
直人に電話をかける。
数回のコールのあと、眠そうな声が出た。
『はい』
「ごめん、寝てた?」
『寝ようとしてた。なに、事故った?』
「いや」
『じゃあ失恋?』
「違う」
『借金?』
「なんで悪い方向ばっかなんだよ」
『この時間の電話はだいたいそうだろ』
拓海はノートを見た。
「歌詞、少し出た」
電話の向こうで、布団が擦れる音がした。
『読む?』
「まだ一行だけ」
『いいよ』
拓海は少し息を吸った。
「今日も頑張れた」
直人は黙っていた。
拓海は恥ずかしくなった。
「いや、やっぱ今のなし。普通すぎるわ」
『いや』
直人の声が少しだけ低くなった。
『それでいいと思う』
「本当に?」
『うん。今のお前が言うなら、それでいい』
拓海は目を閉じた。
『続きは?』
「まだない」
『じゃあ、その“まだない感じ”を書けばいいんじゃない?』
「まだない感じ?」
『完成してない今の状態っていうかさ。無理に綺麗にまとめる前のやつ』
拓海はペンを持った。
今日も頑張れた
まだ形にならないままでも
その下に、もう一行書いた。
今日も頑張れた
矛盾を抱いたまま
「……書けそう」
『だろ』
「なんでお前が偉そうなんだよ」
『俺が小銭貸したから』
「返すよ」
『曲で返せって言ったろ』
電話の向こうで、直人があくびをした。
『拓海』
「ん?」
『お前が完成してから歌うんじゃなくてさ』
「うん」
『完成してないから歌うんじゃないの』
拓海は返事ができなかった。
その言葉は、今日のどの言葉よりも静かに胸に落ちた。
『じゃ、寝る。明日スタジオで』
「うん。ありがと」
『おう。ちゃんと寝ろよ』
電話が切れた。
部屋は静かだった。
外では、遠くを走る車の音がした。
冷蔵庫が低く唸っていた。
どこかの部屋で、水道を使う音がした。
世界は、自分が泣いても泣かなくても続いていく。
それが冷たい日もある。
でも今日は、少しだけありがたかった。
拓海はノートに言葉を足していった。
誰かを救うためじゃない。
強い人間になるためでもない。
今日を越えた自分を、ちゃんと覚えておくために。
書いては消した。
消しては書いた。
途中で、ギターを手に取った。
夜中だから、アンプには繋がない。
弦を軽く押さえて、音にならないくらい小さく鳴らす。
左手の指先に、少しだけ痛みが残った。
その痛みが、今の自分にはちょうどよかった。
完成には、まだ遠かった。
でも、さっきまで空っぽだったページに、小さな熱だけは残っていた。
朝の4時前。
拓海は、書きかけのページをスマホで写真に撮った。
まだインクの乾ききっていない言葉を、そのままバンドのグループに送る。
《まだ途中。全然完成してないけど》
すぐに既読がついた。
真帆から返事が来た。
《完成してなくていい。これ、拓海の言葉だと思う》
続けて直人。
《今日も頑張れたな》
少し遅れて、航平。
《サビで泣かせにきてるじゃん。ドラム、優しく叩くわ》
拓海はスマホを伏せた。
窓の外が、少しだけ青くなり始めていた。
ベッドに倒れ込む前に、拓海は小さくつぶやいた。
「明日は、泣いてもいいか」
誰も答えなかった。
でも、その沈黙はもう、さっきまでの孤独とは少し違っていた。
完成してないままでも。
矛盾を抱いたままでも。
弱さを抱えたままでも。
今日を終えた。
それだけで、充分な夜がある。
拓海は、机の上に開いたままだったノートへ視線を落とした。
題名を書くために空けていた場所に、ゆっくりとペンを置く。
完成していない歌。
完成していない自分。
それでも、今日を越えた証みたいな言葉。
拓海はそこに、ゆっくり三文字書いた。
未完成。
未完成 - ALBA/TOROS





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